雪の季節

《あらすじ》

 神無月春永は娘とスキーをするために雪山を登ったが、コースを外れ遭難してしまう。

 見つけた山小屋で死にかけたとき、餌として食らいにきた雪女に助けられた。

 誰にも言わないという約束をして。

 2年後、春永は雪江という女性と再婚し、幸せな毎日を送っていた。

 

【1】


 真っ白な雪が降る山を、雪女は登っていた。
 服装は白地の着物だ。薄い紫の帯を胴部に巻きつけ、白足袋に草履で、柔らかな雪の道をシャナリシャナリと歩く。目指しているのは山小屋だ。


「ん?」


 丸太で建てられた濃茶色の小屋が見えてきたとき、なかに気配を感じた。
 いる。獲物が。
 ペロリと唇をなめる。ごちそうに、喉が鳴る。
 興奮を抑え、小屋の前に立ち、扉を開ける。暖かそうだが十畳ほどの広さしかなく、暖房など何もない。獲物の絶望する姿を想像するだけでも、体が大きく震える。


「誰だ?」


 しゃがれた声が響いてくる。
 男がひとりなかにいた。丸太の壁に背を当て、両足を前に投げ出し、うつむいて座っている。弱っているようだ。
 赤のスキーウエアに、ニット帽をかぶっている。まだ新しい。スキーブーツをはいている所から、おおかた慣れない雪山でスキーをしていて、コースから外れたのだと予想できる。
 男に近づき、口の両端が切れるぐらいニヤリと笑ってみせ、


「誰でもいい。お前たち人間は、私たちを妖怪と呼ぶし、化け物とも呼ぶ。雪女、とでも言っておこうか」


 正体を明かした。死ぬまで、たっぷりと精気を奪うからだ。ずっとそうしてきたし、これからも同じ行為が続くだろう。


「妖怪? ……ははっ、妖怪か」


 体力がないくせに、男は笑っていた。
 パターンは二つ。冗談だと思ってひきつった笑みを浮かべるか、幻だと思ってポカンとするか。現在社会に、妖怪がいるとは信じられていない。恐怖を感じさせることができるのは、殺す間際が多かった。
 今度のパターンは過去に例がない。警戒する。


「なぜ笑う?」
「妖怪なら、ちょうどいい。それにすら、すがりたい」


 男は顔すら上げられず、口だけが開き、


「頼む。娘を助けてくれ」
「娘?」


 初めて気づいた。男のとなりには、少女がいる。大人の陰に隠れていて、見えなかった。
 少女は小さなスキーウエアを着ていた。六歳か、七歳ぐらいだろう。気絶したように、眠っている。顔に生気は、すでにない。


「頼む」


 男は正座し、凍えた腰を無理やり折ると、額を床につけた。土下座。死にたくないと悲鳴を上げることはあっても、救ってくれと頼まれたのは初めての経験だ。
 動揺する。


「この子を助けてくれるのなら、俺の命をくれてやる。好きにすればいい。娘を、助けてくれ」


 命を捨てる覚悟なのだろう。
 男を見下ろす。小さな少女のほうにも視線をやった。


「娘はかわいいか?」
「そうだ」
「この娘のために、命を捨てるか?」
「そうだ」


 男は断言した。
 親が子を守ろうとする姿に感銘を受ける。同情が生まれた。
 腰を下ろし、男と少女の頬に手を添える。


「何を?」


 象牙のような手を見て、男がつぶやく。


「いちどだけだ」
「えっ?」
「いちどだけ助けてやる。ここには来るな。このことは誰にも言うな。約束できるか?」
「ああ、約束する」
「いいだろう」


 山小屋の出口に向かう。ドアを開け、出て行く瞬間ほほ笑んでしまい、


「かわいいな。お前の娘は」


 なぜ、そんなことをしゃべったのかわからなかった。


「死んだ妻も、そう言っていた」


 男は口を緩めていた。

 

【2】


 雪山の遭難から生還し、二年後、神無月春永は古い石の階段を上っていた。
 寒い気温に対応するために、黒のダウンジャケットを着ている。ズボンはスリムなチノパンだ。二十七歳なので、若者向けの服装でも十分似合った。
 吐く息が白い。手袋をしていても、山の頂上に近づくたびにかじかんでくる。さわさわと、木の枝が冷風に揺れていた。
 階段を上り終わると、大きなブナの木があった。木の根を抱えている土は、専門家から言わせると、車二十台分はあるという。老い木なので、樹皮は白髪のように白くなり、深いシワが入っていた。
 ブナの木に近づく。地上から三メートルぐらいの太い枝に、女が座っている。口を緩ませた。


「雪江ー。迎えに来たよー」


 雪江がブラブラさせていた両足を止める。
 神無月雪江。妻だ。おなかは大きく、妊娠していた。格好は、マタニティーウエアであるワンピースを着ている。年齢は二十三歳と若かった。


「はーい。春永君はやーい」


 雪江が夫の名前を呼んだ。


「子供を身ごもっているってのに、よくこんな木上れるよな」


 あきれて、ブナの太く長い根っこの上に立つ。


「なつかしいんだもん。私たちが初めて出会った場所じゃない。ここは」


 雪江は楽しそうに笑うと、真っ青な空をながめる。北のほうから来たためか、寒さに強く行動的だった。明るさは、子供の頃、両親を亡くした反動なのだという。


「一年前だっけ? 俺が神木にお供えしにきたら、雪江がこの辺で倒れてたもんなぁ」


 木の根っこを指さし、


「倒れてた理由が、『おなかすいたぁ~』だっけ。あきれてものも言えなかったよ」


 一年前、うつぶせに倒れていた女に声をかけると、「おなかすきましたぁ」という返事がきた。旅行で遊びにきたのだが、途中で道に迷ったという。ブナの木は神木として雑誌に特集されたが、田舎にあったので、観光客は少ない。
 来るとすれば、春永のような地元の人間だけだった。だけど、ただの古くて大きなブナという認識なので、めったに来ない。町おこしの材料にもならなかった。


「春永君こそ『大変だ! 110番だ!』って、警察なんて呼んできて、ふたりで謝ったよね」
「あー、忘れたい記憶」
「一生忘れられないわ」


 雪江はクスクス笑った。その縁で結婚するまでに至った。
 結婚にためらいはなかったがちゅうちょしていた。一児の父親だったからだ。娘の名前は神無月小春と言う。八歳になる。
 亡き妻とは、高校を卒業して結婚した。病弱だったためか、小春を出産後他界してしまう。ショックで、仕事を辞め泣き続けた。
 立ち直ったのは、小春の存在が大きかった。妻の親戚が引き取ると言い出したとき、愛の結晶を奪われると思い、抵抗し、就職し、子供を守ってきた。子育てに奮闘し、仕事で金を稼ぎ、ほかの女など見向きもしなかった。
 雪江と出会って変わった。黒髪のロングを手でかき上げてみせると、目元が涼しく、笑うと花のような顔つき。
 亡き妻にそっくりだった。心が動き、妻に申し訳ないと思いつつも、彼女と一緒になることを選んだ。小春に手がかからなくなり、雪江になついていたのも大きかった。
 怖いくらい、幸せな日々を送っている。


「なんでいつも神木にお供えしてるの? 誰もそんなことしないよ?」


 雪江は疑問だったのか聞いてくる。手は大きくなった、おなかをさすっていた。


「う~ん。神木には、精霊が宿ってるって言うだろ? それでだよ」


 お供え用のまんじゅうをポケットから取り出すと、根っこの間に置いた。両手を合わせる。


「ふふっ、変な理由。誰がどう見ても、ただの木だよ?」
「俺は、何かが宿ってるって信じてるんだよ」
「ふ~ん。変なの」
「あんなことがなけりゃ、古い大木だとしか思ってなかったよなぁ」


 頬を指でかく。


「あんなこと?」


 一瞬、雪江の声が冷えた。


「いっいや、なんでもないよ。小春が小学校から帰ってくる。戻ろう」
「春永君」


 雪江の様子が変だ。おなかを押さえ、苦しそうな表情になる。


「ごめん、産まれそう……」
「ええっ! 本当か! まっ待ってろ! 110番を!」
「だから、それ、警察……」


 警察、救急車、地元の人間を呼び出し、雪江を病院に連れて行く。
 オメデタに笑ってくれていたが、ペコペコ頭を下げていった。

 

【3】


 一カ月たった。雪江に、小さな赤ちゃんが誕生していた。清潔な布にくるまれ、腕のなかでスヤスヤと眠っている。身長は四十八センチ、体重は四キログラム。性別は女の子。
 名前は雪江の『雪』という字を取って、小雪と名付けた。家族が増えるので、3LDKのマンションを引っ越そうかと考える。気の強い母が、「ウチにきなさいよ」と誘ってくれるのも考慮に入れている。
 若妻は、夫の両親との同居を嫌がるようだが、雪江と母は仲が良い。両親がいないから、他人の母親との関係にあつれきを感じないのだろう。母親がふたりになったようで気を使う。
 小春は小学校だ。冬休みは終わっていた。
 ベランダに通じる窓から、灰色の雲をながめていた。今年の一月は異常に寒い。四階から外をながめると、白い雪がわが物顔で降り積もっている。


「赤ちゃん、暖かい」


 雪江は抱いている小雪の寝顔に、優しい笑顔を向けた。付き合っていた頃の無邪気な態度は息を潜め、おとなしい母親になっている。


「寒いな。雪が降ってる」


 息を吐いただけで、窓の表面が曇った。子供の頃、これに絵を描いて遊んでいたのを思い出す。


「暖房強くしようか?」


 雪江は首を横に振り、


「ううん。いい。これぐらいがちょうどいいから」
「そうか」


 とめどなく降り続ける雪をながめていると、あのできごとがよみがえってきた。現実ではあり得ないような、昔読んだ童話に似た奇妙な物語。


「雪江」
「んー?」
「雪が降る日にさ、俺、妙な経験したんだ」


 雪が妖精のように踊ると、窓に当たってくる。警告を発しているように思えた。


「どんな経験?」


 しばらく間をおいて、雪江が話の内容を聞いてくる。


「あれは、こんな雪が降る日だった――」


 二年前、小春とスキー教室に、上司の付き合いで行った日。ふたりはコースを外れて、雪山で迷ってしまったこと。奇妙な山小屋を見つけたが、暖房器具がまったくなく、絶望してしまったこと。死にかけたとき、雪女に出会い、助けられたこと。救助隊がやってきて、無事保護されたこと。山小屋は誰が建てたのかわからず放置されていたこと。免許証の入った財布を落としてしまい見つからなかったこと。にどとあの山には行かないと誓ったこと。
 全部話し終えた。沈黙が続く。


「どうしてそんな話を、私に?」


 雪江が静かに口を開いた。


「君が俺たちの家族だからだ。小春もなついてくれた。話しておきたかった」


 悪気はなかった。雪女との約束も覚えている。秘密を話して、雪江との絆を深めたかった。ふたりでやっていくのだから。


「悲しいわ。春永」


 雪江から出た、予想外の言葉。
 肩に、白雪がすっと降ってきた。窓はきちんと閉めているはずだ。


「えっ?」


 着物姿の女が立っていた。白地の着物に、薄い紫の帯。格好を忘れたくとも、脳に刻まれている。女の白い髪が、風もないのに、フワリと浮かび上がった。


「雪江?」


 目を見張った。
 唐突なできごとに、脳の思考回路が働かない。妻の黒い髪が白い髪へ、小麦色の肌が白い肌へ、黒い瞳が獣のような赤へ。間違いなく雪江だった。


「しゃべってはいけないと言ったのに。約束を破りましたね」


 心臓を凍えさせるような、冷たく、感情のない声。
 現実感がなく、ぼうぜんとしていた。
 赤ん坊は、床の上に寝かされていた。
 雪江は白い手をのばす。頬の皮膚にふれた。ぞっとするような、冷ややかな体温。蛇ににらまれたカエルのように、逃げることはできない。


「しょうがない人」


 クスクスと、雪女が笑う。花が咲いたような笑顔は、間違いなく雪江だった。
 意識が元に戻る。


「雪女のおきて。秘密をしゃべった者は、必ず殺さなくてはならない。だけど私はあなたのことを愛してしまった。殺せない」


 雪江は手を離すと後ろを向いた。おなかを痛めて産んだ赤子がいる。


「私は家族というものを知らなかった。雪女は雪の精。子供を産み、育てるという行為を知らない。初めて自分の子供を見た」


 雪江は小雪に近づき腰を下ろした。純粋な寝顔。紫の唇が優しくほほ笑み、


「子供ってかわいいね」


 冷たくなった体温でふれるのは嫌なのか、雪江はながめるだけだった。
 背中を抱きしめる。彼女の体は氷そのものだったがどうでもよかった。


「行かないでくれ! ひとりにしないでくれ!」


 知っている。正体を明かした雪女がどうなったか。童話でなんども聞かされ、なんどもテレビで物語を見た。
 雪江は腕に手を置いた。春の息吹のように暖かかった。


「子供に毛布をかけてあげてくださいな。凍えてしまいます。暖かく、してあげてね」
 声が消えた。氷のような、冷たさも消えた。愛する人の気配も、いなくなっていた。
「雪江?」


 春永の腕のなかには、何もなかった。
 フローリングの床には、大きな水たまりができている。溶けてしまった雪江なのか、自分の涙なのか、わからなくなっていた。

 

【4】


 雪江が行方不明になって、三年たった冬。
 小学校高学年となった小春が、元気よく石の階段を上っている。ダッフルコートに、ジーンズ、ブーツと、かわいらしい格好をしていた。十代らしいエネルギッシュさを遺憾なく発揮し、階段をかけ上がり、


「お父さん! 早く早く!」


 上がり終えると、クルリと振り向き、父親を呼んだ。
 三歳になった小雪を肩車し、ゆっくり階段を上がっていると、


「おとーしゃん、はやくぅー」
「はいはい。わかったわかった」


 舌足らずの口調がかわいくて、ヘラヘラ笑ってしまった。
 小雪は冬物のキッズ服に、ニット帽をかぶっている。
 到着すると、巨大なブナの木が待っていた。


「…………」


 太い枝を見上げる。三メートルほどある高さの枝に、雪江が座っていた。つい涙が出そうになる。


「お供えして帰るか。雪が降るようだからな」


 悲しさをごまかすため、ポケットからお供え用のまんじゅうを取り出す。
 黒のダウンジャケットの肩に雪が降ってきた。フワリとした、柔らかな雪だ。


「お父さん。雪をながめてから帰ろうよ」


 手のひらで雪を受けとめ、遠くの景色を見つめる小春。


「そうだな」


 小春に言われ、小雪を抱くと、神木の太い枝に座った。太ももの上に、小雪を乗せる。体重は十キログラム増えたが、重いとは思わなかった。


「おとーしゃん。おかーしゃんって、どんなひと?」


 小雪は雪を見るたびに、母親のことを聞いてきた。


「そうだなぁ」


 雪をながめた。
 小春が寂しそうに、手のなかで溶けていく雪を見つめている。
 小雪は小さな手を動かし、一つ、雪をつかむことができた。目の近くまで持っていき、凝視する。美しい六花の結晶は、いつまでも見られていたいのか、なかなか溶けなかった。


「雪のように――きれいな人だったよ」


 小雪のちっこい手を、そっとにぎった。
 小春が突然歌い出した。童謡『雪やこんこ』だった。小雪も舌足らずながら、お姉ちゃんのまねをして歌い出す。
 春永も一緒に歌った。歌い終えると、どこからか、暖かい風がふいてきた。


「お父さん下手。ふふっ」


 小春がクスクスと、大人びた笑顔を向ける。


「おとーしゃん。へたー」


 小雪も両手を上げて笑った。
 ふたりの娘は妻の笑顔にそっくりだった。一瞬、顔をゆがめたが、無理やり笑ってみせる。


 ――雪江。私たち家族は、この季節になると、必ず君のことを思い出すよ。


 白い雪が降り積もるなか、ブナの木の枝がミシリと鳴った。驚いて見上げるが誰もいない。なぜかわからないけど、心から笑えていた。


 

 

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